松平定信 ― 江戸に「備え」の仕組みを遺した改革者

明治の日本で、身寄りのない人や病に倒れた人を受け入れる「養育院」を、50年以上にわたって支え続けた人物がいる。日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一だ。

その渋沢が深く敬い、伝記『楽翁公伝』まで編んだ江戸の老中がいる。
松平定信である。

「寛政の改革」の厳しい倹約で知られ、堅物の政治家として語られがちな定信。
しかし彼が江戸に遺した、ある「備え」の仕組みは、80年の時を越えて明治の社会福祉の土台となった。

目次

将軍になれたかもしれない少年

定信は宝暦8年(1759年)、御三卿の一つ田安家に生まれた。
父は田安宗武、祖父は8代将軍徳川吉宗である。

幼名は賢丸(まさまる)。

幼い頃から学問に秀で、12歳で修身書『自教鑑(じきょうかがみ)』を著し、将軍家を継ぐ候補とも目されていた。
しかし安永3年(1774年)、陸奥国白河藩(現在の福島県白河市)の松平家へ養子に出される。

その裏には、当時権勢をふるっていた老中・田沼意次の政治を「賄賂政治」と批判したことで田沼派から不興を買ったためと言われている。

将軍への道を断たれた若者は、北の小藩で、思いもよらない試練に向き合うことになる。

天明の大飢饉と白河藩

天明3年(1783年)、定信は白河藩主となった。
養父・定邦の後を継ぎ、白河11万石。

藩主となってまもなく、浅間山の噴火と冷害が重なり、東北を中心に「天明の大飢饉」が広がっていく。

定信は藩の食料を確保し、江戸から干し魚や乾燥させた野菜を白河へ送らせるなど、手当てに奔走した。
その結果、白河藩では餓死者が出なかったと伝えられる。

時を同じく、米沢藩でも上杉鷹山の改革のもとで餓死者を出さなかったとされる。
定信はのちに鷹山を名君として高く評価した。

二人は、同じ飢饉に立ち向かった同時代の藩主だった。

「死せるものなし」と、その先の悔い

定信は自叙伝『宇下人言』に、仙台藩や津軽藩で数十万の人が飢え死にしたと書き留めている。
そのうえで、自分の領国には死んだ者はいないと記した。

特に東北の被害は甚大でした。白河藩主であった松平定信(後に江戸幕府の老中就任)は、自叙伝『宇下人言』に凄まじい数の飢饉による死者数を書き込んでいます。

「仙台にて餓死したる人、四十万にみてり。津軽も二三十万人死せり」と。

しかし、定信の領国(白河)に餓死者は出なかったと言われています。先述の自叙伝にて、定信も「予が領国は死せるものなしと言えり」と記しています。だが、続けて「餓死しなかったとは言え、食べ物が悪くて、死んだ者がいるかと思うと、今も辛い」とも記しているのです。

東洋経済オンライン「「徳川家基が亡くなった際に…」松平定信が本多忠籌を「英雄」「誠実」と評価したワケ」

飢え死にはしなかったとしても、粗末な食べ物のせいで命を落とした者がいたのではないか。
そう思うと今もつらい、と続けている。

「誰も死なせなかった」と胸を張るのではなく、救えなかったかもしれない命を思い続けた。
この悔いが、のちの定信の政治を形づくっていったのだろう。

平時にこそ備えよ

天明7年(1787年)、定信は御三家と将軍・家斉(いえなり)の父・一橋治済(ひとつばし・はるさだ)の推挙を受けて30歳で幕府の老中首座に就いた。
そして、「寛政の改革」に乗り出した。

飢饉を経験した定信が説いたのは、事が起きてから慌てて食料をかき集めても遅い、ということだった。
意見書では古典『礼記』を引き、国には9年分の蓄えが要ると訴えている。

凶作に備えて米を蓄える倉は、それまでも水戸藩などいくつかの藩に設けられていた。
定信はこの考えを、大都市・江戸の町の仕組みにしようとした。

七分積金 ― 町の節約が、命を守る蓄えになる

寛政3年(1791年)、幕府は江戸の町々に、町の運営にかかる費用を見直すよう命じた。

そして、節約できた額を三つに分ける。
一分は町の予備費に、二分は地主に戻し、残る七分を積み立てる。
この積立が「七分積金」と呼ばれた。

七分積金とは、町入用節減額の十分の七の積金と言う意味である。寛政三年松平定信は江戸の地主階級が負担する町費すなわち町入用を節減するため、天明五年より寛政元年まで五ケ年平均の町入用を算出させ、その額より出来る限り節約した町入用節減高を書出させて、節減を実行させ、その節減額の十分の七を備荒貯蓄のための積金並びに米穀購入費に充て、会所と籾蔵を向柳原に設立した。

総務局「都史紀要7 七分積金」

翌寛政4年(1792年)、向柳原に籾を蓄える蔵と会所が設けられ、「町会所」と称した。
積み立てたお金で備蓄米を買い入れ、さらに貸し付けで運用して、救済の資金を増やしていったのである。

町会所が救ったもの

町会所の救済は、飢饉のときだけではなかった。

昭和8年(1933年)に東京市養育院がまとめた『養育院六十年史』によれば、その中身は次のようなものだった。

  • 病に倒れた一人暮らしの人や、病人を抱える家族に、米と銭を渡す
  • 火事の現場に握り飯や粥を運び、焼け出された人に米と銭を渡す
  • 捨て子や、道で凍え飢えた人にかかる費用を出す
  • 水害や風害、地震に遭った人に、米と銭を渡す

町の人々が少しずつ積み立てたお金に、幕府が上乗せし、運用して増やし、いざという時に配る。
善意だけに頼るのではなく、仕組みで命を支える発想が、寛政の江戸にはすでにあった。

同書は、町会所を幕府の救済制度のなかで最も整い、最も成功したものと評している。
この仕組みは、明治5年(1872年)まで80年あまり、江戸の暮らしを支え続けた。

清きに魚のすみかねて

一方で、定信の改革は人々に歓迎されたわけではなかった。
厳しい倹約令や出版の取り締まりは、町の楽しみを奪うものとして反発を招いた。

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき

白河藩主だった定信の政治は清らかすぎて息が詰まる、多少濁っていても田沼の時代のほうがまだ暮らしやすかった、と皮肉った狂歌である。

寛政5年(1793年)、定信は老中を退く。
改革はわずか6年で幕を閉じた。

南湖と「士民共楽」

白河に戻った定信は、藩政に力を注ぎながら、享和元年(1801年)に南湖を整えた。
武士も庶民も身分を問わず共に楽しむ「士民共楽」の場として開かれたこの地は、日本最古の公園ともいわれる。

この考え方は、のちに水戸藩九代藩主の徳川斉昭が造った偕楽園と重なる。
偕楽園の名もまた、民と偕(とも)に楽しむという意味から名付けられた。

晩年の定信は「楽翁」と号し、和歌や随筆、学問に親しんで数多くの著作を残した。
文政12年(1829年)、その生涯を閉じている。

積金は明治へ

幕府が倒れても、町会所の積金は消えなかった。

明治に入ると東京府に引き継がれ、明治5年(1872年)には、その管理を担う営繕会議所が生まれる。
そこに関わったのが、当時大蔵省にいた渋沢栄一である。

同じ年の10月、積金を財源に、行き場のない困窮者を受け入れる東京養育院が創設された。
渋沢はのちに養育院の院長となり、亡くなるまで50年以上にわたって支え続けている。

『養育院六十年史』は、この流れを、楽翁の遺志と幕府時代の事業を受け継ぐものだと記している。

寛政の江戸で、町の節約から生まれた七分の積立。
それは定信がいなくなった後も人々を救い、明治の社会福祉の出発点へと受け渡された。

渋沢が定信を敬い、その伝記を編んだのは、仕組みを受け取った者としての思いだったのかもしれない。

語り継がれる「備え」

「清きに魚のすみかねて」と疎まれ、改革は6年で終わった。
それでも、定信が江戸に遺した「備え」は、人の手から手へと受け継がれ、形を変えて生き続けた。

平時にこそ、いざという時のために蓄える。
救えなかったかもしれない命を思い続けた藩主の悔いは、今も福祉に息づいている。

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