上杉鷹山の名言に学ぶ なせば成るの精神

戦前、修身という科目があり、当時の尋常小学校や国民学校では必ず学ぶ人物がいた。

それが上杉鷹山である。

先日、たまたま手にとった一冊が素晴らしかった。
子育て世代や自営業、あるいは経営者として人の上に立ち指導する者には、一度読んでもらいたい。

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また、上杉鷹山が祀られている松岬神社にも参拝することができたので、記録としてここに記しておく。

目次

十七歳の藩主、上杉鷹山誕生

上杉鷹山の名を聞いたことがある者は、どのくらいいるだろうか。

私は東北の出身だが、かれこれ三十年近く耳にしたことがなかった。
しかし今は、最も尊敬する人物だと胸を張って言える。

九代目米沢藩主 上杉鷹山公
「成せばなる 成さねばならぬ 何事も」 改革者の功績を振り返る

蚕(かいこ)のまゆ
上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国(ひゅうがのくに~宮崎県)高鍋藩主「秋月種美(たねみつ)」の次男として、江戸で生まれました(幼名「直松」)。母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(つなのり)」の孫娘でした。 宝暦10年(1760年)に八代目米沢藩主「上杉重定(しげさだ)」の養子となり、元服(成年の儀式)の際に名を「治憲(はるのり)」とします。翌年の明和4年(1767年)に、家督を継いで弱冠17歳で九代目米沢藩主となった治憲(鷹山)は、傾いた米沢藩を救うため、まず「大検約令」発し、役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革への第一歩を踏み出します。 その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていくのですが、最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋(あおそ)を原料とした縮織(ちぢみおり) に始まり、これらを基として養蚕(ようさん)・絹織物へと発展していきます。 鷹山という名前にしたのは、52歳からで、文化3年(1806年)には、56歳となった鷹山が「養蚕手引」を発行・配布します。文政5年(1822年)に72歳で死去しますが、生涯を米沢藩の人々のために尽した功績は、初代 上杉謙信と並んで後世に語り継がれています。

[伝統の社]米沢市上杉博物館

鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸で生まれた。
母の春姫は、四代目米沢藩主・上杉綱憲の孫娘。

宝暦10年(1760年)に八代目米沢藩主・上杉重定の養子となり、明和4年(1767年)、家督を継いでわずか17歳で九代目米沢藩主となった。

米沢藩の困窮

上杉家の藩祖は、上杉謙信。

後継者を指名する前に亡くなったため、養子であった景虎と景勝の間で相続争いがあり、最終的に景勝が跡を継いだ。
景勝の頃、豊臣秀吉の配下となり会津に移され百二十万石に。その後、徳川家康により厳罰の意味で三十万石に減らされ、領地は米沢へ移された。

それから三代、四代と続いたが、四代目綱勝の正室・媛姫が輿入れの二日後に死亡する。
悲しみに暮れる綱勝もまた、二十七歳の若さで逝去した。

御家断絶となるところを、媛姫の父・保科正之が責任を感じ、綱勝の妹・富子の子である上杉綱憲を十五万石で取り立てるという名目で存続させた。

それでも六千人の士族があり、上級士族は自分の血行地の百姓から様々な名目で税を取り上げた。
下級武士は副業をせざるを得ない生活を強いられ、夜逃げするものも続出。

田畑も荒れ、人口も減り、藩の収益もまた減少することとなった。

追い打ちをかけるように凶作が続き、幕府のお手伝普請も強いられることになる。
領内の豪商や大地主をはじめ、あらゆるところからの借入がかさみ、実に二十万量両にもおよんだと言われている。


八代目重定の頃には、米沢藩は滅亡の危機にあった。

やむを得ない為、藩を幕府に返上する他ないと相談するも
「米沢藩は関東官僚謙信公以来の天下の名藩。ご先祖さまにも申し訳なく、世間からも物笑いになるであろう。なんとかならないか」と窘められ、行き詰まっていた。

大倹約の執行

重定公は隠居して、綱憲の娘・豊姫の孫である治憲(後の鷹山)に後事を託そうとした。

早くに母を亡くし祖母のもとで育てられていた治憲は、その賢さに定評があり、重定の娘・幸姫の婿養子として迎えられた。

1767年、家督を継いで重定公が九代目となったのは17歳の時だった。


まず鷹山が行ったのは、江戸の家臣に対する大倹約令だった。

生活を見直し贅沢を禁じることを大々的に打ち出し、神事仏事の延期、祝宴贈答の禁止、一汁一菜と木綿着用などを命じた。

自身の仕切り料も、一千五百両から二百九両に据え置いた。
幸姫も普段着は木綿、食事は一汁一菜とこれに倣ったが、旧藩の諸老臣から猛反発を受けた。


反発は想定済みだった。

鷹山は懇切丁寧な文書を国元に送り、養父重定も家臣を米沢城に集めて大倹約令を発布。
家臣たちも、ようやく従うことになった。

一度ならず二度も襲った災難

鷹山が国元米沢で最初に体験したのは、先勤争いだった。

明和6年(1769)10月に初入部、翌年1月開催の鉄砲上覧で、三手組の御馬廻
(謙信旗本の由緒)と五十騎(景勝旗本の由緒)が先勤(最初に打つ)争い
 御馬廻と五十騎、交互に先勤を行てきた。順番的には五十騎が先勤の年であ
ったが、三手筆頭(分限帳など格式上ではトップ)の御馬廻が、初入部の際は
特別で、格上の御馬廻が先勤と主張、紛争となった(寛永4年・享保11年にも
紛争)。
 鷹山、両組及び与板組の首脳を呼び、諸々と諭す。説得を受け、五十騎先番
と、の回答を出すが、配下の不満で紛糾、御馬廻トップが罷免の状況に至り混
乱状況となり、奉行等の藩首脳は鉄砲上覧の中止を検討、鷹山が再度両組首脳
に懇願した。御馬廻から後番を勤める、五十騎からは鷹山指示に無条件で従う
旨を受け、鷹山は後番を申し出た御馬廻にお礼の言葉をかけ、順番通り五十騎
を先勤として開催した。

米沢の歴史を見える化/米沢に伝わる稲富流砲術 その6 おしまい

謙信旗本の由緒を持つ御馬廻と、景勝旗本の由緒を持つ五十騎。
この両組が「最初に鉄砲を打つ」先勤の座を巡り、百年余りにわたり衝突を繰り返してきた。

鷹山は両組の代表を集め、誠意を持って語りかけた。
次第に態度を変えた双方から「格式が上の馬廻組に譲りたい」「いや五十騎組にこそ」と、譲り合いの声が上がったという。

百年余りの争いは、こうして幕を閉じた

守りから攻めへ ー 産業振興

災難を乗り越えた鷹山は、藩内の生産性を上げることに着手する。

当時の農村は荒廃し、年貢の取り立てから逃げる欠落が後を絶たなかった。
そこで鷹山が起こしたのは、意識改革である。

「籍田」とは古代中国の周の国で行われた儀礼で、天子(君主)が国内の農事を励ますため、自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に備えたことから始まったものです。
 この故事を学んでいた鷹山は、凶作などで困窮し、働く意欲を失ないかけていた米沢藩の農民を奮起させようと、安永元年(1772)自ら籍田の礼を行うことを決心しました。鷹山22歳、明和6年の初入部に続く二度目の米沢の春でした。その担当者には近習(側に仕える役目)の佐 藤文四郎を任命し、田は米沢城の西南、遠山村の四反余(約40アール)を選び、準備が進められました。
 3月26日の朝、鷹山は家臣を連れ白子・春日両神社にお参りしたのち、初めに鷹山公が自ら3鍬を入れ、続いて奉行3人が9鍬ずつ、以下佐藤文四郎・郡奉行などが45鍬、代官などが72鍬、下役が99鍬、遠山村の肝煎(きもいり=村役人)と農民が300鍬を入れ、全員で神社からの神酒をいただいて終了しました。 

籍田の遺跡

「籍田の礼」という行事を作り、自ら鍬を振るった。

安永元年(1772年)、22歳の鷹山は、米沢城の西南・遠山村の田で自ら三鍬を入れ、続いて家臣たちが次々と鍬を入れた。


また、米沢は山国で塩の生産ができなかったため、小野川温泉に塩焼き場を設けた。
武芸上覧や大筒遠丁上覧等武芸の奨励にも力を入れるなど様々な分野の振興を図った。

織物業の礎を築いた人々

産業振興の中でも、最も大きな成果となったのが織物業だった。

執政竹俣当綱は、樹芸役場を設けて漆・桑・楮の三方に担当を置き、それぞれ百本ずつの苗木を植えさせた。
育った作物は一定価格で買い上げる仕組みとし、農民の生産意欲を大きく引き上げる。


米沢で取れる青苧を、ただ売るだけでなく織物へと加工するため、鷹山は越後から縮師・源右衛門一家と職人五人を招いた。
源右衛門一家は小出村に住まわされ、育成のための田畑・屋敷を与えられて定住が支援された。

女性たちに機織り技術を習得させ、青苧を原料とした織物生産が始まった。
生産された織物は一定価格で買い上げられ、これが後の米沢織へと発展していった。

麻織物から麻絹交織、そして絹織物へ。
今日「置賜紬」として国の伝統的工芸品に指定されているものも、源右衛門たちが蒔いた種の延長線上にある事を忘れてはならない。

雪に閉ざされた冬にも、仕事を

鷹山の産業振興が優れていたのは、農繁期だけでなく、雪に閉ざされる冬の副業にまで目を向けていたことだ。

米沢の隣、笹野の地には「笹野一刀彫」という木彫りの民芸品が伝わる。

もとは坂上田村麻呂が東征の折に開いた千手観音とともに、信仰玩具として興ったとされるものだが、鷹山はこれを豪雪で閉ざされる冬場の副業として指導奨励した。
材料のコシアブラを秋に伐採し、一、二年乾燥させてようやく彫ることができるという、気の長い手仕事である。

農地から見放される冬という季節に、何もできないまま過ごすのではなく、その季節にこそできる仕事を用意する。

これは、後に触れる鷹山の福祉思想と、同じ発想なのだろう。

天明の大飢饉を凌ぐ

米沢藩はもともと山地が多く、米の収穫が不安定な土地である。
鷹山はそれを見越し、飢饉が起きる九年も前から備籾倉を各所に整備していた。

宝暦五年(1755年)の凶作の際には、富商から賑恤米を出させたが、約四千人の餓死者や流亡者を出している。


安永三年(1774年)には竹俣当綱に命じ、北寺町の籾倉屋敷内に梁間三間半・奥行二十間の倉庫五棟を新設したのを皮切りに、新町蔵屋敷、糠野目村、小出村、川井小路など各地に籾倉を増やした。

毎年、籾五千俵と麦二千五百俵を二十年間にわたり蓄積し続けたという。

さらに、報恩日という日を月に二日設け、その日の労働賃銀を貯蓄させて不時の用に備えさせた。


天明の大飢饉(1782年〜)は、全国的にも大きな災害だった。
餓死者は全国で九十万人以上と言われた中で、米沢藩では一人の死者も出さなかった。

鷹山の功績として名高いのが天明の大飢饉(1782年)における米沢藩の処置です。藩士、領民の区別なく一日あたり米3合の粥を支給し、酒、酢など、穀物を原料とする品の製造を禁止するとともに、被害の少なかった地域から米を買い入れるなど迅速な対応が功を奏し、仙台藩では30万人が餓死したといわれる大飢饉の中で、米沢藩では一人の死者も出さず、江戸幕府から表彰されています。

上杉鷹山と米沢平野の開発

「民は国の本である」ー 民政の強化

当時の封建社会において、百姓に対する扱いは「生かさず、殺さず」と言われるのが常だった。
四六時中働かせ、年貢さえ滞りなく納めれば良い。そういう時代である。

しかし鷹山は、民は国の本であると考えていた。

豊かで平和な国造りをしようと、明和8年(1771年)、新たに郡奉行所を二の丸の政事所そばに設置。
十二人の郷村教導出役を任命し、執政・竹俣当綱に「郷村勤方心得」「行事仕立方箇条書」を作らせた。

質素倹約と勤労を尊ぶことを説き、権力的な威圧を戒め、自ら率先垂範して見せる。
そして五人組の制度を強化し、村ごとに廻村横目という役を置いて、善を勧め悪を戒めさせた。

刑罰よりもまず、情理を説いて指導する。それが鷹山のやり方だった。

間引きの禁止

当時の東北の寒冷地では、冷害や凶作による困窮から、生まれた子を育てられず、間引きが半ば公然と行われていた。
米沢藩とて例外ではなかった。

そうした時代に、鷹山は五人以上育てている者には、末子が五歳になるまで一人扶持を与えるという策を講じた。

さらに、幼くして父母を失った者、片輪や病気で貧しい者、身寄りを失った老人。
こうした人々を、分け隔てなく家族のように憐れむよう指導した。


養育手当、弱者への見守り、そして備荒貯蓄による飢餓そのものの予防。
子を育てられる経済的な支えを用意し、生まれた後も社会全体で見守り、「食えなくて間引く」という状況自体を減らす。

そこで新たにあらためて伍什組合ならびに近隣の五ヵ村組合を設けることとする。
五人組は、常に睦じく交わって苦楽を共にすること家族のようでなければならない。
十人組は、時あれば親しく出入してお互い事情を理解しうこと親類のようでなければならない。
ひとつの村では互いに助け互に救い合ってその頼もしさは友人のようでなければならない。
五ヵ村組合の村同士は苦難にあって相互に助け合い、隣村同士のよしみの甲斐あるようでなければならない。
 このようにそれぞれ組ごと絆を強くして交流し、老いて子がなく、幼くして親がない、あるいは貧しくて養子得難く連れ合いに先立たれ、あるいは身体の不自由ゆえ身過ぎままならず、あるいは病気治療行き届かず、死んでも弔いなしがたき、または火事にあっては雨露しのぎがたき、変災に遭っては一家立ち行き難き、かように難儀いかようにもし難きものがあるならば、まずは五人組がわが事として世話致し、それで及ばぬ事あれば十人組が力を合わせ、それで及ばねば村での世話で難儀を除き、その生涯それ相応無事のうちに遂げしむるようにしなければならない。さらにそれ、もしも一村大なる災害に襲われその村立ち行き難きほどの危機に際しては、近隣の村はよそ事として傍観することなく、かかる時ほど近隣のよしみ、四ヵ村頼もしく救済にあたらなくてはならない。 

移ろうままに

現代でいう少子化対策や社会保障制度の原型を、財政破綻寸前の藩で、二百五十年前に実行していたことになる。

教学の奨励

鷹山は学問を重んじ、安永5年(1776年)、藩校「興譲館」を創設した。
師である細井平洲に意見を求め、命名も平洲によるものである。

寛政8年(1796年)12月には友于堂で学業試験が実施され、日通生・童生の教育も充実。
本草家の佐藤平三郎を招き、翌年には諸生の学業試験も行われた。

学舎内には好生堂(医学館)も設けられ、蘭学者・大槻玄沢の門下で薬草の採取法・製薬法を学んだ佐藤平三郎をはじめ、宮崎直之、長沼杏庵、桑島貞伯、内村玄登といった人々が、蘭学・医学の研鑽に励んだ。


細井平洲は、二回目の米沢下向では富農層の婦女子二百余人を集めて孝経の講釈を行ったりするなど、町人や農民の求めに応じて通俗講義も行ったという。

こうして興譲館の隆盛とともに指導者層が充実し、郷村教導出役には郷村までも学を尊ぶようになったという。「東北の長崎」と言われたほどの隆盛を、この学び舎は見た。

七重臣の反逆

鷹山による再建が軌道に乗りつつあったある年、江戸の二つの藩邸が火災で焼失するという災難が起こる。

しかしこの頃には、鷹山の周りに理解者が増えていた。
かつて争いのあった五十騎組がリーダーとなり、武士階級でありながら率先して労働奉仕を申し出た。

一方で、命令にあからさまに反抗する重臣も現れる

改革は進みつつある。そう思っていた矢先、事件が起きた。突如、米沢城の鷹山の元へ家臣たちが駆け込む。突き出されたのは、改革を完全に否定する訴状だった。「一汁一菜や木綿の衣服などというのは小事に過ぎない」「武士に農業をさせるとは、鹿を馬とするような馬鹿げた行いだー」。訴状に署名したのは、代々上杉家に仕えてきた名家の7人。性急すぎる改革が保守派の激しい反発を招いていたのだ。改革の中止を認めるまで、部屋から出せないと凄む重臣たち。

4時間以上も続いた押し問答の末、騒ぎを聞きつけた家来が助けに入り、鷹山はなんとか脱出した。
鷹山が下した処分は、7人のうち5人を隠居・閉門、2人は切腹。裏で手を引いていた儒学者・藁科立沢(わらしな・りゅうたく)は斬首という、厳しいものだった。23歳の鷹山は、改革を進めるため断固たる意志で抵抗勢力を一掃した。

THE歴史列伝

改革を完全に否定する訴状を突きつけられ、鷹山は四時間以上も部屋に押し込められる事態に至った。

処分は七人のうち五人を隠居・閉門、二人を切腹。
裏で手を引いていた儒学者は斬首という厳しいものだった。

23歳の鷹山は、断固たる意志で抵抗勢力を一掃したのである。

隠居してもなお衰えない、鷹山の手腕

飢饉を脱した頃、鷹山は藩主の地位を養父重定の次男・治広に譲った。

天明五年(1785年)2月6日、35歳のときである。
この際に治広へ送った心得「伝国の辞」は、今なお広く知られている。

伝国の辞でんこくのじ

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
(国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない)
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
(領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない)
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
(国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、”君主のために存在・行動する国・国民”ではない)
右三条御遺念有間敷候事(三ヶ条を心に留め忘れなきように)
天明五巳年二月七日  治憲 花押

伝国の辞/なせば成る~

治広が初めて国入りした際、財政についての大評定で予算を半減し、借り入れをせず歳入のみで歳出を賄うことが決まる。


しかし鷹山とともに手腕を発揮した莅戸善政や竹俣当綱の代を過ぎると、次第に収益が減り、再び藩財政は傾いていった。

鷹山への後見を望む声が高まり、治広をたてながら再び総務を統括することになる。

歳入を十五万石の半分、七万五千石として予算が組み直され、年貢の滞納分は長期分割に。
養蚕を盛んにするため桑の苗を農民に与え、桑が育ってから開墾費用を回収する仕組みも整えられた。

絹織物・麻織物の技術は向上を続け、米沢織は広まっていく。
今なお最高級品と称される、その礎である。

惜しまれこの世を去った鷹山

こうして民生は安定し、産業は発達。

貯蓄までできるようになった米沢藩は、年貢を完納し、長年苦しんだ多くの借金をも返済して、五千両の剰余金が生まれるまでになった。

滅亡寸前だった米沢藩を見事に復興させたその功績は、幕府からも治政の行き届いた藩として表彰され、松平定信からは「三百諸侯中の随一の名君」と称えられた。


文政5年(1822年)3月12日、72歳で永眠。
鷹山が家督を継いだときには毎年三万両の不足があり、借入金の元金は十一万両あまりあったが、没した翌年頃にはほとんど零になっていたという。

どんなときも、人に対して尊敬と愛を持ち続けた鷹山。
ケネディ大統領が日本記者から「あなたが日本で最も尊敬する政治家は誰か」と問われた際、「それは上杉鷹山です」と答えたという逸話も残っている。

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

この名言が生まれた背景には、十七歳で藩主となってから七十二年の生涯をかけて積み重ねられた、幾重もの重みがある。

財政を立て直すという「守り」の改革だけでなく、織物や木彫りといった産業で人々に仕事を与え、間引きが当たり前だった時代に子を育てる者を支え、老いた者・病める者・身寄りのない者を見捨てない社会を作った。

「民は国の本である」という一つの思想が、経済政策にも、福祉政策にも、教育政策にも、等しく貫かれていた。

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