徳川光圀。水戸の地に生まれ、やがて“水戸黄門”と呼ばれた人。
だが、その名の背後にある生涯は、勧善懲悪の物語よりもっと静かで、もっと深い「祈り」のようなものに満ちている。
波乱万丈な幼少期
水戸初代藩主徳川頼房の三男として、光圀は1628年に誕生。
水戸城下の家臣・三木之次の屋敷にて生を受けた。
その経緯として、父の頼房の乳母「岡崎」が5歳の頃に病死したことに遡る。
昼夜悲しむ頼房を見かねて、その父である家康は、岡崎に容姿が似ている妹の武佐を頼房付きにした。

光圀公の母は久子。
側室だったため、懐妊がわかると頼房により堕胎を命じられた。
それを知った武佐夫婦は久子を匿い、自らが暮らす三木邸にて密かに出産させたという。
こうして、三木夫婦の子として育てられた光圀公。
幼名は長丸といい、非凡な才能を見出され5歳の頃に認知。水戸城に迎え入れられた。
6歳には江戸入りし、水戸藩の世子として教育を受けることになる。
頼房による教育を受けてお世継ぎへ
このお世継ぎ教育が非常に厳しかったという話が残っている。
「戦場において、若し、父である私が、重い手傷を負って倒れたとしよう。その時、そなたはどうする。私を助けるか?」
とわが子の光圀に聞きました。すると光圀は
「もし、重い手傷を負って倒れ伏されたような場合は、私は、戦の最中ですから、父上のお体を乗り越えて、敵と戦いたいと思います」
と、答えました。これを聞いた頼房は、満足そうに頷いたということです。
引用元:水戸藩祖徳川頼房公伝
また、光圀七歳の時には、大変な肝試しをされています。
ある時小石川邸において、罪を得て討ち首になったものがおりました。夜になって、父頼房は光圀に対し、その者の生首を持ってくるように命ぜられました。
光圀は、直ちに館の玄関を出て、暗闇の中を約4丁ほど離れた桜の馬場に行き、そこに晒されていた首を持ち、重い大人の生首の髪の毛をつかんで、引きずって館まで帰ってきた、というエピソードがあります。
引用元:水戸藩祖徳川頼房公伝
日々厳しい訓練に耐えながら、9歳を迎えた日。
仮元服の際に、将軍家光から「光」と「国」の字を与えられ、徳川光国と名乗ることになる。
さらに十二歳の夏には、頼房は光圀を連れて江戸の浅草川に行き泳ぐことを命じました。これを聞いた御供の者たちが大変心配して
「溺れ死ぬようなことがあったらどうなさいますか。お止めください」
と諌めました。ところが頼房は
「いや、そうではないぞ。我が子ならば泳げるはずだ。もしも溺れ死ぬような者であれば、それほどの不器用者、たとえ生きていたとしても役に立たない。少しも悔やむことはない。さあ、早く泳げ!」
と命じまして、西の岸から東へ向けて泳がせました。頼房も川に入り、一緒に泳ぎました。
この年は、凶作があった年で、餓死した遺骸が川上から数多く流されてきました。光圀は腐乱した遺骸を押し退けたり、その下を掻い潜ったりしながら泳いでおりましたが、川の半ばを過ぎたあたりから疲れてきました。
すると、泳ぎの達人であった父頼房は、光圀の前に出て、腰から上を水面に出して立ち泳ぎしながら
「お長、川はもはや浅きぞ。これ見よ。我が背の立つほどなるぞ」
といって、後ろ向きに立ち泳ぎしながら光圀を励まし、とうとう岸近くの船まで泳ぎつかせました。
頼房は、疲れ果てた光圀の下帯の四結びをつかんで、小舟の中へ投げ入れました。
舟に上がった頼房は、我が子光圀が見事に泳ぎきったことに満足し、ご褒美として「三条小鍛冶宗近」の名入りの脇差を下さったそうです。
舟の上でぐったりしておりました光圀でしたが、これを聞いてぱっと起き上がり、「有難うございます」とその脇差を頂いたそうです。
しかもその脇差は、とても気に入ったらしく、以来、江戸城に登城するときは、いつも腰に差して愛用されたそうです。
引用元:水戸藩祖徳川頼房公伝
そんな境遇の反動からか、若い頃の光圀公は傾奇者として有名だった。
兄を差し置いて水戸藩の跡継ぎ候補となったこともあり、様々なストレスがのしかかっていたのだろう。
容姿端麗だったとされる光圀は、若い頃は女性者の着物を羽織ったり、元服する前からの遊郭通い、さらには辻斬りまで行っていたという話も残っている。
あまりの非道行為に、傅役の小野言員が「小野言員諫草」を書いて自省を求めたこともあったようだ。
18歳の頃に訪れた転機
光圀が初めて「義」を知ったのは、これまでの幼い日の出来事からだったという。
18歳の時、中国の歴史家・司馬遷が記した中国の歴史書『史記』の伯夷伝に触れたことで人生が一変する。
伯夷と叔斉は、孤竹国の二人の王子で、孤竹国での跡継ぎ争いを避け、文王のもとへと赴きました。しかし、たどり着いた周の国では文王はすでに亡くなり、文王の跡を継いだ武王は、紂王と妲己を討伐するため、殷の都へと軍を進めようとします。
伯夷と叔斉
伯夷と叔斉の二人は、進軍する武王の馬前に進み出て、極悪非道といえども主君である紂王を討伐するのは「不忠」だと諫めます。この諌言は受け入れられず、伯夷と叔斉は首陽山に隠棲し、山菜などを食べながら生活していましたが、とうとう食べるものがなくなって餓死したといわれています。
血筋や身分を超えて、正しいと信じたことを貫く。
儒教思想の源泉となった出来事に触れ、感銘を受けた光圀公はそれまでの行動を改めた。
実子を養子に、兄の子を養子に
光圀は、讃岐高松12万石の大名となっていた兄、頼重の子を養子にもらって水戸藩の跡継ぎにすることを決めていた。
まだ正室がいなかったため、側室との間に生まれた長男(頼常)は家臣に預けられた。
1654年に正室の泰姫と婚姻を結ぶが、泰姫は体調を崩しそのまま死去。享年21歳。
光圀公は、以降正室を取らなかったと言われている。
1661年に頼房が亡くなると、光圀は水戸藩二代当主となった。
1663年には頼重の長男である綱方を養子にし、翌年、光圀の長男(頼常)は頼重の養子となった。
水戸の町の基礎を作り上げた光圀公
父、頼房の時代にも水戸の城下町の拡大と整備が行われていた。
しかし、その頃に埋め立てられた湿地帯は降雨の時には井戸がにごり、人々は飲料水の確保に難儀していた。
町奉行の望月恒隆に水道設置を依頼、およそ3年かけて今の「笠原水道」が建設された。

また、寺院の廃止や移転を行い、神社の整備に力をいれた。
これら東照宮や静神社、堀出神社といった神社は、今でも地元の方々に愛される神社となっている。



朱舜水による儒教をベースにした水戸学
1665年、光圀公は儒学者である朱舜水を招いた。
当時水戸に広まっていた儒教と朱舜水の儒教は大変異なったという記述がある。光圀公は朱舜水を師と仰ぎ、その思想は水戸学へ繋がっていくことになる。
水戸学というのは、儒学思想を中心に国学・史学・神道を結合させたもの。
のちの斉昭公が「弘道館」という日本一の藩校を開講させると、江戸を始め全国から人々が集まり水戸学を学びに来たという。

後に吉田松陰も水戸を訪れた際、「水戸学」に触れて感銘を受けた。という話もある。

蝦夷地への開拓
光圀公は、蝦夷地開拓を目標にして「快風丸」を造船。これは江戸時代における三大船舶と言われている。
調査は3度ほど行われた。
■調査記録
引用元:石狩ファイル
(水戸藩豊田亮(とよだたすく)が書いた「北島志(ほくとうし)」や、「快風丸蝦夷聞書(ききがき)」などに記載されている)
・集まってきた940人ほどのアイヌに酒を振舞った
・たくさんの鮭が川をのぼり船の櫓にあたるほどであった
・生鮭100本を米1斗2升と交換した
・アイヌは川端に住み、両岸は木が茂って往来できず船で行き来している
・アイヌの村には一人づつ大将がいて、石狩川流域の惣大将(そうだいしょう)はカルヘカという人物
・干鮭(からさけ)を細かく切り湯煮して鮫の油をかけて指で食べ、生鮭は氷頭(ひず)の部分を食べる
・熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲っている。口を1か所開けて出入りし、夜は親子兄弟一所に寝ている
・家の中の地面にいろりを掘り、木をくべてあたっている
・船が難破漂着してこの地に留まり、アイヌ人を妻として居住する和人が十数人いる
・シャクシャインとの戦いのあと、松前藩はアイヌから刃物や武器を残らず取り上げた
等々を記録しています。
■帰還
快風丸は、熊皮、干鮭、塩引き鮭1万本、ラッコ皮、トド皮などを積み、12月に那珂湊に帰港しましたが、その後二度と蝦夷地を訪れることはありませんでした。
身分に関係なく等しく生きる
光圀が起こした事業として、健康も一つのテーマだった。
貧しい領民たちは、病気になっても医者にかかれず薬もない。
そんな状況を憂い、身近で手に入れられるもので治療ができるように試みた。
日本最古の家庭医学書「救民妙薬」の完成である。
「水戸黄門様」として知られる水戸藩2代藩主・徳川光圀公が藩医穂積甫庵(ほづみほあん)に命じてつくらせた日本最古の家庭療法本(1693年)。
「水戸黄門」が作らせた日本最古の家庭療法本『救民妙薬』とは?
手帳ほどのサイズで、中風の妙薬にはじまり、酒毒・蛇咬(へびくい)・痔・しもやけ・虫歯・頭痛・脚気・腹痛・おこり(マラリア等の熱病)等、手軽に入手できる薬草を主に用いる処方397種が130項にわたって平易な言葉で記載されており、明治・大正まで続くロングセラーとなった。
食通でもあった光圀公は、当時珍しかった牛乳や牛肉、豚肉なども食していたという。
朱舜水から教わったラーメンを元にした「水戸藩ラーメン」は、陰陽思想に基づいた食養生の一つであった。
日本で最初にラーメンを食べたのは、光圀だったのだ。
徳川光圀の晩年について
1670年に、跡継ぎ候補であった兄(頼重)の長男 綱方が死去。
その後、頼重の次男 綱條を養子にし、1690年に綱條が跡を継いだ。
自身も隠居。
中納言の位を授けられると、古代中国の唐の官位「黄門侍郎」にならい黄門様と呼ばれるようになっていった。
水戸藩で中納言の位を授けられたのは全部で7人。
光圀が気に入って広めたのか「水戸の黄門様=光圀公」は街の人々に浸透していく。
西山荘での晩年と大きな功績
光圀公は、西山荘で晩年を過ごした。
この地で領民として年貢を納めていたというエピソードが残っている。
もちろん、隠居の身とはいえそんな制度はない。
御前田、たくさんの薬草、そして桃源郷と名前をつけたほど愛した広大な庭に囲まれ、畑を耕すなどしていたという。
1701年に食道がんで逝去。
しかし、1657年に着手した”日本唯一の紀伝体による日本史”は未完成のまま。
その意志をついだ水戸藩の人々の手により、約250年かけてようやく「大日本史」は完成した。
その功績をたたえ、綱條は「義公」という諡をつけた。
義を持って生きた人
義とは武士道にも通じ、打算や損得のない人間としての正しい道のことを指す。
彼は将軍家の一門にありながら、権威に溺れず、国を治めるとは何か、人としてどう生きるべきかを問い続けた。
その生い立ちから複雑な少年時代を送りましたが、兄への忠義心、領民の為に尽くしたそれはまさに「義」だったのではないかと思う。

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