私は出身が秋田県なのですが、今現在茨城に住んでいます。
「出身はどこですか?」と言われて「秋田です」というと必ず言われるのが「秋田美人」そして「佐竹が美人を連れて行った」という話です。
佐竹義重が将軍となった経緯
天文十六年(1547年)2月16日、佐竹義重は第17代当主である佐竹義昭の子として誕生しました。
母は岩城重隆の娘、幼名は徳寿丸。
1562年、すでに常陸国最大の戦国大名と言われていた父は32歳の若さで隠居し、僅か16歳で家督を継ぎました。
父、佐竹義昭は一代で勢力を広げ、水戸城を拠点にしていた江戸氏はじめ常陸南部から陸奥にかけててを制圧。
1564年には現つくば市の小田城を制覇。
その一年後には父が逝去してしまい、義重にすべての重圧がのしかかってきたのでした。
父の意思を継ぎ常陸国から関東制圧へ
義重が当主になった頃、南には関東地方の一大勢力だった北条氏、北には会津の戦国大名蘆名氏という強敵がいました。
常陸国最大とはいえ、いつ戦が起こるともわかりません。
そんな折、1574年には上杉謙信が関東の北条の領地に進軍し、佐竹氏にも出陣要請をしていたといいます。
上杉氏と佐竹氏は、佐竹義昭の代に鎌倉管領上杉憲政よりその力を見初められ、上杉氏と管領職を譲ろうという話が出ますがもともと「清和源氏」と「藤原氏」であったので源氏を捨てるわけにはいかないと断っていた経緯があります。
後に、上杉氏は越後の長尾輝虎に譲られ、のちの上杉謙信となったのでした。
1566年には、義昭死去の混乱に乗じて小田城を守護していた佐竹義廉を追放、再び北条と結ぼうとしますが、これが上杉謙信の怒りを買い猛攻撃を受け、後に落城。
この小田城に関しては最弱の城という不名誉なあだ名が付いてしまっていますが、落とされても取り返すという忍耐力の城でもあります。
その攻防戦は8回も行われたとか・・・
これはまた別の記事で書くことにしましょう。
鬼将軍と言われるようになった戦い
父譲りの強さを表し「坂東太郎」「鬼義重」という名前が付きました。
坂東というのは、関東一長いと言われる利根川のことで「関東一強い男」を意味します。
また、北条家と戦った際に相手方の軍力に味方が怖気づき身動きが取れなかった時、佐竹義重は怖気づくことなく突撃していきまたたく間に7人の敵を斬り伏せたといいます。
義重が愛刀としていたのは「八文字長義」という刀で、これで北条方の兵を兜とともに真っ二つに斬って捨てたという話もあります。
さらに、佐竹義重といえばあの特徴のある兜。
そう、毛虫です。
古くは、源氏を「けむし」と発音したとか、毛虫は前にしか進まない、葉を食べる(刃を食う)ことのゲン担ぎなど様々な説がありますが、実際この兜で直進してこられたら・・・と思うとシンプルに恐ろしいなと思います。
義重から義宣への世代交代
勢力が衰えない佐竹義重は、結城氏や宇都宮氏や当時関東大名では初めて、羽柴秀吉と同盟を結びどんどん勢力を広げていきました。
佐竹氏と伊達氏による戦い
そして、佐竹氏は天正十三年(1585年)11月17日に伊達政宗とも戦いますが、常陸国の守護が手薄になり北条氏からの侵略を恐れたため、あと一歩のところで撤退してしまいます。
ことの始まりは、伊達政宗の父である輝宗のところに挨拶でやってきた二本松城主の畠山義継が、帰りぎわに輝宗を拉致して逃げようとしたため、追撃した政宗が父親の輝宗もろとも鉄砲隊に射殺させたというもの。
これにより、伊達氏と畠山氏を養護する連合軍(佐竹・蘆名・相馬・岩城・石川・白川・二階堂)が退治することになります。
伊達氏7800に対し優勢な状況下で30,000近いと言われた連合軍でしたが、佐竹家の部将である小野崎義昌(義重の叔父)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生した事、さらに北条方の馬場城主や安房の里見らが攻め寄せるとの報が入り軍勢が撤退していったのです。
戦況としては伊達氏の敗戦でしたが、結果的には勝利で終わったこの戦いですが、一部では工作があったのではと噂されたこの「人取橋の戦い」。
父である輝宗の代からの重臣・鬼庭左月斎が老体ながらも殿(しんがり)を務め、高齢のため重い甲冑ではなく兜の代わりに黄綿の帽子を着けて参戦しましたが最前線で討ち死にしてしまいました。
岩城常隆の家臣・窪田十郎が対峙したと言われ、伊達政宗はこの戦いの後、佐竹氏と同盟を結びます。
会津蘆名氏は跡継ぎが見つからず家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子である義広を養子に迎え婚姻となると事実上蘆名氏も傘下に入り、佐竹氏が奥州一統を成し遂げたのでした。
秋田美人が生まれたきっかけ?義宣誕生へ
戦いの最中、1570年に佐竹義重と伊達晴宗の娘との間に生まれた佐竹義宣。
伊達政宗とは従兄弟になります。
常陸国にあった太田城(佐竹城)で誕生し、幼名を父と同じ徳寿丸と名乗りました。
義宣が家督を継いだのは、信長が死去した4年後の天正17年(1589)で17歳のとき。
同時期に、兄の蘆名義広が「摺上原の戦い」で政宗に伊達政宗に破れ、再び佐竹一族は足元が危ぶまれていました。
少し前の1584年に小牧・長久手の戦いがあり、秀吉と織田・徳川が対立しますがこの頃から石田三成と佐竹義宣の友好関係が築かれていったと言われています。
石田三成の恩義に準じた佐竹氏
先の摺上原の戦いでは蘆名家臣に対し鉄砲や火薬、兵糧等を送り救援。
1590年には秀吉による難攻不落と言われた小田原城への進出に伴い、石田三成と増田長盛の計らいにより秀吉に謁見後、佐竹義宣および北関東の大名たちは忍城を水攻めで攻めますが失敗に終わります。
次に、小田原城へ向かいますが水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築くのですが、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ城のように見せかけたことから「一夜城」と言われます。
これにより田原城中の将兵が驚き士気を失ったといわれ、小田原城は秀吉の領地へ。
先の忍城は小田原城主が援助していた関係にあったので、小田原城主は秀吉の求めに応じて自らの部下たちに降伏するようすすめ、忍城も秀吉の手に落ちました。
佐竹義宣による南方三十三館仕置き
その功績を買われ、佐竹氏は常陸国を与えられましたが鹿島城の鹿島氏を筆頭とした「南方三十三館」による反感がありました。
1591年、義宣は梅見の宴と称し、常陸太田城に諸将を招きもてなしたと言われています。
それから佐竹の兵がなだれ込み、内原町の和光院過去帳によると「天正19季辛卯2月9日於佐竹太田に生害の衆、鹿島殿父子、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、烟田殿兄弟、相鹿殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿、已上16人」という記載があるそうですが9氏16人が殺害される事件となりました。
これにより常陸国統一となり、父義重からの悲願が達成されることとなりました。
この時義宣、22歳と言われています。
天下分け目の関ヶ原の戦いへ
慶長3年(1598)8月になると、秀吉が伏見城において病床につき63歳で死去。
1900年には、豊臣軍と徳川軍による戦いが始まります。
西軍の総大将は石田三成10万軍、東軍の総大将は徳川家康7万軍。
先に陣を構えた豊臣軍が有利に見えましたが、黒田官兵衛の息子である黒田長政は徳川家につき、裏で交渉をしていたと言われています。
これにより、西軍にいた小砂川秀秋と脇阪、朽木、小川、赤座、吉川が寝返り、西軍は総崩れとなり徳川の勝利となったのでした。
この時、佐竹氏はというとどちらにつくこともできず「中立」の立場を取っていましたがこれが徳川家康にはよく思われなかったようで、1602年に常陸54万石から出羽20万石へ減転封されてしまいました。
これが、秋田左遷の経緯です。
律義者と言われた佐竹義宣
出羽の国(秋田)へ国替えとなり、久保田城の初代藩主となった義宣。
この際に、腹いせに秋田に常陸の美人をすべて連れて行ったという話や、後に水戸藩に入ってきた頼房が「美人がいない!」と文句をいったら出羽の不美人を送ってきたという話が出ています。
また、佐竹について金銀やハタハタがついてったという話も。
むかしむかし、常陸国(いまの茨城県)は、佐竹の殿様によって治められていました。しかし、関ヶ原の戦いのあと、天下人になった徳川家康は、佐竹の殿様にいまの秋田県への国替えを命じます。殿様は悲しみにながらも、命じられたままに常陸国を離れることになりました。
引用元:茨城県の民話
佐竹の殿様のご用をつとめる飛脚の頭に、与次郎よじろうという者がいました。与次郎は人前に現れることは少なかったものの、代々殿様に仕えてきたといわれていて、一日に百里(400km)も走る俊足の持ち主でした。与次郎は他にも超人的な能力を持っていたので、キツネの化身だとうわさされていました。この与次郎もまた、殿様と一緒に秋田に移り住んだといわれます。
べっこ べっこ
神か
んべっこ
金砂かなさ
のべっこに
負あけっと
ぼたもち半分
やんないぞ
金砂郷村(いまの常陸太田市)の金砂神社の祭りで行われる牛ずもうの歌です。(べっこは牛のこと)むかし、県北では金銀がたくさんとれました。しかし、佐竹の殿様がいなくなると金と銀はそれぞれ大きな牛に姿を変えて、のっそのっそと秋田に行ってしまいました。それ以来、常陸国では金銀がとれず秋田でとれるようになったといいます。
また、むかしは常陸国の海でハタハタという魚がとれました。しかし、ハタハタもべっこと同じように、殿様と一緒に秋田の海にいってしまったといいます。ハタハタをサタケウオなどと呼ぶのは、佐竹の殿様と一緒にやってきたことに由来します。
佐竹の殿様についていってしまったものは、それだけではありません。茨城の歌や民謡、そして美人まで、よいものはみんな殿様が持っていってしまったといわれています。
これを考えると、佐竹氏はよほどカリスマ性があったのだろうなぁという気がしますね。
ちなみにこの金砂神社は西と東があり、こちらの記事でも紹介した宝珠上人が社殿を造り祭壇を設けたことから始まった神社のことです。
久保田城に行ってもなお衰えなかった佐竹家
当時の秋田の県北地方は歴史的に見ても金山に恵まれた土地で、そこで採掘された金銀は財政の助けとなっていたのは確かのようです。
美人を連れて行ったということについては、常陸入りすることなく伏見から直接秋田入りし、一族・家老ほか譜代九十三騎、家臣にして157名しか連れていけなかったという記述があるのでこの話も定かではありません。
慶長8年(1603年)に石垣や天守閣を持たない「久保田城」を築城しました。
天守も石垣も使わず、沼沢を利用した堀と土塁・土塀をめぐらした質素な城だったのですが、これは徳川家康に対しての配慮だったとも言われています。
明治に変わり政府による版籍奉還が行われるまでは佐竹家がこの地を治めていました。
また、佐竹義重は県南の六郷城に住み、反佐竹勢力から義宣を守ったと言われています。
商業や林業といった町作りにも力を入れたこともあり、佐竹氏は栄えていきます。
東西南北と分家をし、本家である佐竹北家の末裔で21代目の佐竹敬久は現秋田県知事を務めています。
単なる豪快さだけではなく、政治手腕についても持ち合わせており、外交上手と言われ、秀吉が頼りにし家康が恐れたと言われる佐竹氏。
現在も秋田の地を治め、遠く離れた茨城でも噂になっているところをみると、人を引きつける何かがあるのかもしれません。
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