東北の、主に庄内地方で行われている冬の行事があります。
それが大黒様のお歳夜といわれるもの。
お歳夜というのは年越しの夜という意味をもち、祝い事の日であります。
大黒様のご利益とは
日本には八百万の神様がいると言われ、節句や行事などで折に触れて神様へ作物などをお捧げする機会があります。
毎年12月9日は大黒様の日として、お料理をお供えするという大黒様の日。
なぜ大黒様なのでしょうか?
大黒様は七福神の一人で、因幡の兎という話で傷ついた兎を助けた人物。
福耳で笑みを浮かべ、大きな袋を背中に担ぎ打ち出の小槌を持っているのが一般的なスタイル。
大抵は米俵に乗った姿をしていますね。
このことから、大黒様のご利益として五穀豊穣、財福があげられます。
大国主と大黒天は同一人物
大黒天と恵比寿は似ていますが、大黒天はオオクニヌシノミコトが元になっていて恵比寿神は息子にあたります。
恵比寿神であるクシヒコがオオナムチ(クシキネ)の代役を務めていた経歴もあるので、同一人物ではないかと言われているのでしょう。
大黒様の日お歳夜
12月9日は大黒様のご歳夜といって、ご先祖様を祀り大黒様に作物を捧げる日。
お膳はシンプルで、豆炒りや黒豆を入れた大根のなます、豆腐の田楽とハタハタの田楽焼(ぶりこと言われるお腹に卵が入ったハタハタ)、大豆ご飯と畑で取れた作物。
畑のご馳走である豆を使ったお膳が並びます。
そして、大黒様といえば一番大事な「まっか大根」!
まっか大根
これは二股に分かれた大根のこと。
その昔、吉高の神様に意地悪をされて餅をたくさん食べさせられて苦しむ大黒様をみた村人が、死んでしまっては大変と二股に分かれた大根の一本を折って食べさせたというお話があります。
お坊さんは「大根は上の方は一本でも二股になっているのがあるだろう、その二股の一方を刈って食べさせれば抜いたことにならないはずだ」というので、二股の大根をさがして食べさせたらあっという間にすっかり良くなったので皆は安心したそうだ。それから毎年、大黒様に二股の大根をお供えするようになったということだ。
出典元:登米の昔話
似たようなお話で、やはり餅を食べ過ぎた大黒様が通りがかった村の嫁に「大根を分けてくれないか」と声をかけたところ「姑に見つかれば怒られるので、二股の大根の一つを分ければ見つからないでしょう」と言われ難を逃れた。というものもあります。
このことから、二股の大根を大黒様の嫁に見立ててお供えするようになりました。
大根であるスズシロは体を綺麗にする食べ物とされていたというのはホツマツタエにも記されています。
最も恐るべきは誤ってミテ(三字・璽)の獣を食べる事です。食べたとたん己の血肉が凝(こ)って縮み、身の油を減らしながら空肥(からぶとり)して頭の毛も脱け落ちやがて早死にするぞ。やむないこんな緊急時には、二ヶ月半の間イミヤ(忌小屋、酒肉を禁じ沐浴する室)に籠(こも)ってスズシロ(大根の別称)を大量に食べよ。いわんやフテ(二字・璽)の獣を食べた者は、たとえ生きたとてその臭さは腐る屍(しかばね)同然、これを生き腐れの毛枯れ(けがれ、汚れの語源)と言うのだ。この者は神の恵みも断たれて救い難く、三年間イミヤに入れスズシロ(大根)を大量に食べさせて体毒を消し、薬にシラヒゲ(白髭、芹・せり)とハジカミ(しょうが又は山椒・さんしょう)を与えて徹底して身の不浄な垢(あか)を濯(そそ)げよ。やっとまともな人に戻るのだ。」
出典元:株式会社 日本翻訳センター
大黒様の日の頃は丁度、大根や人参などの収穫時期で抜いてみたら二股だった!なんてこともあり、そんなときはお供え用として寄せておきます。
出荷できない変形をわざわざお供えする行事もおもしろいですよね。
形が変わっていても野菜は野菜。 すべての命は平等に大事であるという事を伝えてくれるのでしょう。
大黒様のお使いは
そんな大黒様のお使いですが、これは須佐之男との件で大黒様である大国主の命があわや蒸し焼きに・・・という時に救ってくれたのが鼠であったことに由来します。
水戸の八幡宮の子年の石像は、大黒様と一緒でしたよね。
また、大黒天の黒は易でみると黒は北を表し、北の方角は子になります。
大国主は国譲りで北へと移りますが、東北地方に限りこの行事が伝わっているところを見ると非常に興味深いですね。
タカミムスビが今度の不祥事に至った原因を度々問い正した時も、オオナムチは誠意を尽くして素直に答え、それはいちいち理にかなって同情に値するものであったので情状酌量により、アマテル神の詔のりによりこの件は国替えと決まりました。この時正式にツガル、アソベのアカル宮(現・岩木山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜り、後に供の百八十神と力を合わせてツガルの国を再開発して良田を広げ再び豊かな国造りを成しとげました。
オオナムチは賜ったツガルの国にアカル・アソベのウモト宮(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、その境内地の建築規模はチ(千・せん)ヒロ(一尋は1.515m又は1.818m)にも及び、宮殿の甍(いらか)は高々とそびえ、木の香も真新しい多くの棟々は掛橋(かけはし)で一体に列なり、それはあたかも緑なすアソベの岳を背景に出現した空中楼閣を思わせる佇まいでした。
オオナムチに従ってツガルに下った百八十神の新築なった家並を遠望する時、それは丁度アカル宮を中心にオオナムチを守るようにお互い助け合い強い絆で縫い合わせた壮大な服従の白楯(しらたて)を彷彿させました。国を移された御魂の意からウツシクニタマ(顕国玉神)と称えられたオオナムチは後にツカルウモトノ神(東日隅大元神)となり神上がりました。出典元:株式会社 日本翻訳センター
大黒様のお使いが子なのは米を守るために鼠を管理している、という説など様々ですが、町を歩いているとこういった石碑を見たことはありませんか?
甲子塚とは
石碑をよく見ると「甲子塚」とありますね。
この甲子というのは60干支の組み合わせの一番最初に位置します。
最初といえば十二支の最初、子。
子が大黒様のお使いなので、甲子塚や甲子像というのはそれにちなんで五穀豊穣や豊作を祈願し作られました。
それに伴って、子孫繁栄という願いも込められています。
子の刻、12時まで起きて豆や二股大根などを食しましたが、その目印として作られた塚だと言われています。
甲子信仰は食と命が密接に関係していた時代、安定した生活を送れるように祈願したのでしょう。
今は食はあふれるくらい豊かになりましたが、食べ物を大切にする気持ちは忘れないでいたいものですね。
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