吉田松陰といえば、「松下村塾」を開校した人物。
卒業生には伊藤博文はじめ総理大臣二名、国務大臣七名、大学の創設者二名という、後の日本のキーマンとなるエリートを輩出しています。
これは水戸の弘道館とどこかリンクするところがありますが、決定的な違いはその卒業生が明治以降も存命し今日の政治の基礎を作ったということです。
吉田松陰のなりたち
天保元年の1830年、萩藩士である杉百合之助(七兵衛の長男)の次男として松本村(現山口県萩市)に生まれました。
幼名は寅之助。
彼が6歳の時、叔父である吉田大助(七兵衛の次男)が亡くなり跡継ぎがいなかったため、松蔭は養子として家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗ります。
吉田大助は、松蔭の父である百合之助の弟で、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に出された経緯がありました。
山鹿流兵学とは?
この山鹿流兵学は、単なる戦に勝つだけの戦法や戦術を学ぶところではなかったそうです。
というのも、この祖である山鹿素行は朱子学をベースに、武士の生き様や志についてどうあるべきかを探究し、武士道精神を示したと言われています。
朱子学といえば、水戸の徳川光圀公が明より招いたとされる朱舜水により広められ、水戸学の基礎にもなっています。
朱子学が日本に広まった経緯
光圀公の父である初代水戸藩主頼房から続く「尊王」は、元は頼房の父である徳川家康が導入したこの朱子学が根本にあると言われています。
というのも、家康は戦国時代を生き抜き天下統一を成し遂げました。
また同じような戦乱が起こらぬように、主君への絶対的な忠誠心を広めるため朱子学を取り入れたといわれています。
その後、藤田幽谷が出した「正名論」では更に身分を正しくし、それぞれが役割を全うすることで世の中が正しくなるということが伝えられました。
幽谷は、君臣上下の名分を厳格にすることこそ社会秩序維持の根幹であると主張、その名分が正しく存在するのは日本だけであり、天皇の尊厳性と将軍との関連からみて将軍は摂政と改称すべきである、とする。名分を正すことによって社会を治めることを言う正名論は、本来各人がそれぞれの地位にふさわしい職分を果たすことによって社会秩序は正しく維持されるとする中国の伝統思想の1つであり、「名」(社会的地位)と「実」(「名」にふさわしい職分の遂行)との一致を理想とするところから発している
引用元:「必ず名を正さんか。」『論語』子路篇13)
その後、幽谷の弟子である会沢正志斎が「新論」を著したのですが、こちらは鎖国か開国かという時代の流れも加味され「攘夷」が強く打ち出されたものとなりました。
そのため、尊皇攘夷は危険な思想だとこれも新たな火種となり、後に水戸学を学んだ人々が命を落としてしまい明治維新まで存命しなかった原因となってしまいました。
教育熱心な叔父による兵学
さて、吉田の姓を継いだ松蔭は玉木文之進の元、兵学について熱心な教育を受けることになりました。
玉木文之進もまた吉田大助同様に叔父であり、七兵衛の三男でしたが玉木十右衛門の養子となっていたのです。
松蔭は五歳の頃から玉木文之進のもとで学び、九歳になると明倫館に出仕するまでに成長しました。
明倫館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称されたほどの名高い藩校です。
ここで、松蔭は山鹿流兵学の教授見習いとして出向き、なんと翌年には叔父の後見のもと教授になったのです。
後に玉木文之進は1842年、自宅で「松下村塾」を開校しました。
松蔭の遊学は何をもたらしたのか
1850年、19歳になった松蔭は家学を修めるため九州遊学を思い立ちます。
孫子の兵術の一つに「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という言葉があり、まずは外の世界をよく知ることが必要なのだと感じたのでしょう。
九州だけでなく江戸や東北まで足を運び、この際に通行手形が間に合わず手形無しで他の藩に足を踏み入れたことで「脱藩行為」を行ってしまうのですが、今で言う無断で国境を超えたに等しい行為だったので、家名断絶、財産没収、場合によって死刑に処されるほどの厳しい処罰を受ける可能性もありました。
吉田松陰も例にもれず、回遊を終えて江戸に戻ると荻に強制送還され、士籍剥奪、世禄没収となったのです。
なぜ、手形の発行を待てなかったのかというと、ともに回遊を約束していた宮部鼎蔵と江幡五郎が東北回遊の日付を12月15日の赤穂浪士討ち入りの日に合わせて計画していたため、その日に遅れることが許せなかったと言われています。
どこか人間くさいところが魅力でもあった吉田松陰らしいエピソードですね。
この遊学中に水戸を訪れ「水戸学」の尊王攘夷思想に触れた吉田松陰は更に思想家として思いを高めていったと言われています。
こうして浪人となってしまった松蔭ですが、父が育み役となり、更にその才能を惜しんだ長州藩の第13代藩主である毛利敬親が密かに10年間の諸国遊学を許した事で今回は藩の承認のもと、遊学を継続することになりました。
黒船来航による西洋への意識
1853年、浦賀にペリー率いる黒船が来航。
当時の日本は鎖国か開国化で揺れていて、渡航はもってのほか。
しかし、その圧倒的な技術をみた松蔭は「西洋と戦う」ことより外国のやり方を学び取り入れることを試み、宮部鼎蔵の親友であった金子重之輔とともに密航を計画します。
それぞれ偽名を使い書をしたため、それを持って乗船希望の旨を直接直談判しにいくという無謀とも言える行動をとります。
<英文和訳>
引用元:長耳碧目録~日本と西洋が出会った頃
我々2名は世界を見たいと望む者です。どうぞ、貴船に我々を乗せて下さい。
外国への渡航は、然しながら、日本で固く禁じられている行為です。
もし、あなた方が日本の役人に連絡したならば、我々にとって深刻な問題となるでしょう。
貴提督方に我々の望むところをお許し頂けるのであれば、明日の夜遅く、柿崎村の浜に伝馬船を1艘送ってお迎え下さい。
1854年4月19日
市木公太
瓜中萬二
ペリーとしてはすでに日本との条約を結んだばかりで、お互いを法律を守るという約束をしていたため二人とは会わずに乗船を拒否したと言われています。
二人は、幕府に見つかることを恐れ自首。
吉田松陰と金子重之輔は取り調べを受けましたが、その際に、下田奉公所へペリー直々に「二人への過酷な罰はやめてほしい」という通告があったため投獄という形になりました。
杉家の父、兄も謹慎。
金子重之輔は藩籍を離れていたため身分の低いものを収容する岩倉獄に送られた後、劣悪な環境により皮膚病が悪化、肺炎を引き起こし病死したと伝えられています。
一方で、松蔭が投獄された野山獄は士分の者を扱う収容所だったため、囚人同士の交流や差し入れも比較的自由だったため、囚人同士を集めて交流するということをはじめました。
そのうちお互いに得意なことがあるということがわかり、お互いに教え合うことで更生の場にしようという松蔭の思いがあったようです。
獄中で600冊を読破した松蔭も自ら「孟子」の講義などを行いました。
出獄ののち謹慎中に開いた私塾
自宅謹慎を命じられた吉田松陰は出獄し、荻家にて預かりの身に。
これもまた、第13代藩主である毛利敬親による意向ともいわれていますが定かではありません。
家族のすすめもあり、投獄中に行っていたように近親者や親族に「孟子」の講義を始めるとこれが評判を呼び、幽室には沢山の人が集まるようになっていきました。
当時の藩校である明倫館は武士を対象にした藩校でしたが、叔父の玉木文之進が開いた「松下村塾」を引き継ぐと松蔭は身分を問わずその門を開放し、出入りの時間も設けませんでした。
そして、一方的な教えではなく獄中で行っていたように「ともに学ぶ」ことを大切にし、講義だけでなく討論会が中心となっていました。
「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」という野山獄での経験が生きていたのでしょう。
しかし、老中井伊直弼による水戸藩及び尊皇攘夷思想を弾圧する動きを知った松蔭は、いても立ってもいられず同じく老中だった間部詮勝を暗殺する計画を企てました。
忍び寄る最後の時
間部詮勝は、井伊直弼とともに幕府批判を行なう尊王攘夷派の弾圧「安政の大獄」を進めていきますが、「天下分け目のご奉公」という決死の覚悟で臨んだといいます。
その弾圧は厳しく、「井伊の赤鬼」に対し「間部の青鬼」と批判されました。
京都での摘発を終えた間部詮勝が孝明天皇に謁見し、条約締結の勅書を得ることができ、この動きは終息したかに見えました。
しかし、間部詮勝が摘発した尊皇攘夷思想の主要人物を死罪にする、という井伊大老の方針に激しく対立した間部詮勝は老中を免職となりました。
頑なに排除しようとした井伊直弼に対し、松蔭が暗殺を企てた間部詮勝は尊皇攘夷思想で摘発された一派を養護するような動きをとっています。
一度でも直接議論する機会があったのなら、松蔭は命を落とさずに済んだかもしれません。
吉田松陰の最後
最初、吉田松陰は「疑いあり」として安政の大獄で取り調べを受けましたが、当初は証拠なしということで釈放という流れでした。
しかし、松蔭自ら「間部詮勝の暗殺計画」を暴露してしまいます。
これが井伊直弼の逆鱗に触れ、死刑実行。
1859年、松蔭29歳の時でした。
吉田松陰が残した言葉に、こんな文章があります。
もうすぐこの世を去るというのに、こんなにおだやかな気持ちでいられるのは、春夏秋冬、四季の移り変わりのことを考えていたからです。
春に種をまいて、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬が来れば貯蔵する。
春と夏にがんばった分、秋が来ると農民は酒を作って、なんなら甘酒なんかもつくって、収穫を祝い、どの村でも歓喜の声があふれます。
収穫期がやってきて、きつい仕事がようやく終わった。
そんな時に、悲しむ人なんていないでしょう。
私は、30歳で人生を終えようとしています。
いまだ、なにひとつできたことはありません。
このまま死ぬのは惜しいです。
がんばって働いたけれど、なにも花を咲かせず、実をつけなかった。
ですが、私自身のことを考えれば、やっぱり実りを迎える時期がきたと思うんです。
農業は一年で一回りしますが、人の寿命というものは決まっていません。
その人にふさわしい春夏秋冬みたいなものが、あるような気がするんです。
百歳で死ぬ人は百歳なりの四季が、三〇歳で死ぬ人は三〇歳なりの四季があるということ。
つまり、三〇歳を短すぎるというなら、夏の蝉と比べて、ご神木は寿命が長すぎるというのと似たようなものじゃないかと思います。
私は三〇歳で、四季を終えました。
私の実りが熟れた身なのか、モミガラなのかはわかりません。
ですがもしあなたたちの中に、私のささやかな志を受け継いでやろうという気概のある方がいたら、これほどうれしいことはありません。
いつか皆で収穫を祝いましょう。
その光景を夢に見ながら、私はもういくことにします。
引用元:覚悟の磨き方
また、弟子の高杉晋作が昔、師の吉田松陰にこう訪ねたことがありました。
「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
その答え通り、非常に潔い最後だったそうで処刑人の山田浅右衛門が「最後まで立派な武士であった」という言葉を残しています。
彼の志を引き継いだ高杉晋作はじめ、松下村塾の門下生を中心に幕末から明治へ、目まぐるしく変化していく日本を作り上げていきました。
高杉晋作は西洋式の装備と戦略を元に奇兵隊を引き連れ幕府と戦い、大政奉還の後に明治維新へと繋げました。
足軽の出だった伊藤博文は初代大統領へ。
指導者とはなにか。
教育者とはなにか。
今の日本にも吉田松陰のような志をもった人物が必要なのかもしれませんね。
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